もうひとりのR ー小松川事件と私
1958年8月。
【小松川事件起こる。東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が殺害された。
逮捕されたのは、当時18歳2ヶ月、日本名金子鎮宇(かねこしずお)こと在日朝鮮人2世・李珍宇(イ・チヌ)少年。
朝鮮人李珍宇(イ・チヌ)は、極悪非道な殺人魔としてセンセーショナルに報道され、
精神鑑定も少年法の適用もされないまま1962年11月26日絞首刑によって命を断たれた。(享年22歳)
日本名、金子鎮宇(かねこしずお)と名乗り、極貧の現実から抜け出すため、少年は日本人のふりをし、優秀な成績で中学校を卒業。しかし「お前は朝鮮人だ」という理由一つで、すべての就職の門を閉ざされ、八方ふさがりの中で首をつって自殺をはかった。ギリシャ神話のイカロスの翼のように天空を飛ぼうとしたのである。少年は太陽の熱で、翼が溶け、地に失墜した。これが李珍宇(イ・チヌ)少年である。】
参照「解説―小松川事件」『李珍宇書簡集』p.54-p.70
1959年
【私は、同胞の集落、神奈川県川崎市中留耕地に私塾(無料)を設ける。繁華街をうろつく青少年たちを一人一人声をかけ、集落に設けた私の塾へ遊びにくるよう熱心に呼びかけた。私は南北を超える教育の場をつくりたかったのだ。テキストは、アメリカの黒人詩人ラングストン・ヒューズの詩集である。この黒人は美しいというフレーズで始まる詩集をテキストにして、私は少年たちに呼びかける。「あなたたちは美しいのだ。美しい祖国の文化と歴史を一緒に学びましょう」と。そして私は差別に屈しない民族の誇りを訴えたのです。そして小松川事件を語った。日を追って生徒は増え、廊下にまで溢れるほどの満席となった。彼らは、あの貧しい村に置き去りにしたミョンヨニたちであった。この評判をきいて、朝鮮総連の啓蒙雑誌『新しい世代』から「記者として働いて欲しい」との勧誘があった。塾はもはや私の力では余りあるものとなっていた。私はこの雑誌の記者として、雑誌を教室として、読者に呼びかける仕事を選んだのである。】
1959年2月
【犯行当時18歳だった少年李珍宇に死刑判決。
少年法の適応も精神鑑定も一切無視されたままの死刑である。私は小松川事件遺族宅を訪問し、「謝罪と救命運動を許してほしい」とお願いした。その時ご両親から思いがけない謝罪をされることになる。
「あの関東大震災の時、この江戸川一帯は、たくさんの朝鮮の方々が虐殺された土地です。江戸川の川水が何日も何日も血の水でした。私たちはあれだけひどいことをしておきながら、これまで一度もお詫びもしてきませんでした。この度、娘の事件を知って朝鮮の方々からお詫びの手紙やらご香典をいただいています。今日またあなたがお見えになりました。どうぞ李君が死刑で殺されても、娘は生きて帰ってきません。立派に成人してこそ、償われると信じています。」
そのあと李とどのように向き合うのか、教えられた思いがした。さらにお父様は「もし李君が外にでてこられたら、私の工場で迎えたい」とも言われ、このことを聞いた記者が全国紙に記事を配信した。この後、太田家にはすさまじい脅迫が連日のように舞い込んでくることになった。「朝鮮人に娘を殺されたお前は、それでも大和魂をもっている日本人か。死ね」という脅迫である。その後、1年足らずでお父様はお亡くなりになった。李が処刑される前の年である。その後、獄中の李珍宇に面会を始め、文通や本の差し入れなどを行った。面会室は教室になった。】
李少年の助命運動を続け、世論に訴えるため『婦人公論』1962年10月号に李珍宇との書簡の一部を『獄窓に祖国の瞳を見つめて』と題して発表。
1962年11月16日
李珍宇死刑執行
【絞首刑が執行された。李珍宇は22歳。異例の死刑執行である。誰一人、この死刑に抗議する者はなかった。ただ韓国のオモニたちの会が、日本商品の不買運動を起して抗議している。しかし李珍宇の荼毘に付した遺骨は、仙台の朝鮮総連のオモニたちが設えた祭壇に迎えられ、李の老いた父親とともに通夜を行った。
処刑の半年前、手紙が届いた。
「僕は22になったばかりだ。やっと、どう生きねばならなかったのかが分かりかけてきました。生きるという希望も余地もないのに、僕はいまウリマルの勉強をしたいと思っています。国語とは、民族の血肉であると思います。一言でも生きているうちに身につけていきたいと思っています。テキストを送ってください。」
死後に彼からの遺書が届いた。「ヌナ(姉さん)、どうぞ悲しまないでください。僕は金子鎮宇と死ぬのではなく、李珍宇として死ぬのです。ヌナ、ありがとう。悲しまないでください」】
1964年
『罪と死と愛と』李珍宇との往復書簡の一部刊行(三一書房)。ベストセラーとなる
1979年
往復書簡の全文を『李珍宇全書簡集』
新人物往来社から刊行。
この二書とも、「もうひとりのR」ともよぶ在日朝鮮人2世と若い読者に与えた影響ははかりしれず、読者からの手紙と訪問が相次いだ。
【朝日新聞・1968年 民族偏見ないだろうかー朴壽南 ライフル男事件に思う『平等』となえるけれど 朝鮮人として生きられぬ】