アリラン慰霊のモニュメント
歴史の真実をこころに刻み語り継ぐために
アリラン慰霊のモニュメントはかつて日本軍「慰安婦」として
戦場に連行された多くの女性たちを追悼し
この過ちをくりかえさないよう後世に語り継ぐために建てられた記念碑です。
モニュメントは、拝所と人々が集う広場で構成され、全体として生命を表す
大きな渦になっています。渦の中心である拝所には、このモニュメントの
テーマである「還生」(ファンセン=生命が甦る)という言葉が刻まれています
碑文
第二次世界大戦末期、日本本土防衛の捨て石とされた沖縄の戦場に、朝鮮半島などから千余名の女性たちが日本軍の性奴隷として、また万余の男性たちが軍役の奴隷として連行されました。
海上特攻艇の秘密基地とされた慶良間の島々には、千余の「軍夫」が苦役に、21人の女性が「慰安所」につながれました。
1945年3月26日米軍上陸の前夜、住民たちは日本軍によって無念の死を強制されました。一方で「慰安婦」たち4人は非業の死をとげ、日本軍の迫害と虐殺による「軍夫」たちの犠牲は数百人にのぼります。
「将兵に性を売った女」として、半世紀以上も歴史から抹殺されてきた20万人余の女性たち。
その存在に光をあてた記録映画「アリランのうたーオキナワからの証言」(1991年監督朴壽南)の制作活動に参加した橘田浜子は、戦後、帰郷の道を失って沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」ペ・ポンギさんが死後五日目(1991年10月19日)に発見されたことに衝撃を受け、悲惨な犠牲を強いられた女性たちを悼み、心に刻むモニュメントの建立を呼びかけました。阿嘉島の垣花武栄をはじめ全国から資金が寄せられました。
渡嘉敷村の皆様からは、戦後初めて韓国から慰霊団を招きこの地で催した合同慰霊祭(1990年10月27日)が機縁ともなって、建立地の提供など物心にわたるご支援をいただきました。
生命を象徴する玉石は、韓国の彫刻家チョン・ネジン氏より寄贈された作品です。モニュメント制作には、伊集院真理子・本田明など県内外から多くの人が参加して、渡嘉敷に築窯、共同作業によって、完成しました。
モニュメントの完成に至る年月は、日本の国家責任を問い、自らの尊厳の回復を求めて立上がった、アジアの被害者のたたかいと結び合い、私たちが歴史への責任を自らに課した日々でもありました。
このモニュメントが、再び侵略戦争を繰り返さないために真実を語り継ぎ、生命の讃歌をうたう広場となることを祈念しつつ。
美しければ 美しきほどに 悲しかる
島 ゆきゆきて 限りなき 恨
浜子
1997年10月14日
アリラン慰霊のモニュメントをつくる会
◉モニュメント建立へ PDF資料
「アジメの死」その背後から聴こえてくるもの
朴壽南 沖縄タイムス連載
橘田浜子「従軍慰安婦の慰霊の碑を」建立基金を呼びかけ
元「慰安婦」の名誉回復を 東京でポンギさん3回忌
沖縄に従軍慰安婦の慰霊碑完成 来月記念式典
「日本の加害の歴史、心に刻みたい」市民らが「アリラン慰霊碑」資金難も乗り越え 慰安婦らのため建設(97/11/1朝日新聞)
全国の支援で建立 9日に渡嘉敷村で式典
ポンギさんの追悼式開く 遺族らが遺骨引き取る
「悲しい過ち繰り返さない」アリラン慰霊のモニュメント完工式「和解のシンボルに」従軍慰安婦らのみ霊慰め(97/11/10琉球新報)
モニュメント建立のあゆみ
1987年
1月
朴壽南「もうひとつのヒロシマ」沖縄上映会。日本軍によって渡嘉敷に連行され、戦後沖縄に生き残った元「慰安婦」ペ・ポンギさんの存在に直面する
7月
「もうひとつのヒロシマ」山梨上映会
橘田浜子さん(山梨平和を語る会代表)と出会う
9月
「韓国原爆被爆者協議会」「韓国教会女性連合会」を訪問。原爆被爆者の日本政府への国家補償要求に続いて「従軍慰安婦」問題 を提起。
1989年
5月
第2作目「アリランのうた」沖縄クランクイン
12月
製作支援ネットワーク「アリランのうたを創る会」結成。
1990年1月~
阿嘉島、座間味島、渡嘉敷島、沖縄本島各地へ、タブーである朝鮮人「慰安婦・軍夫」の恨(ハン)と島人自身の玉砕の証言を掘り起こしていく。沖縄に製作支援ネットワーク結成。(代表:真境名光弁護 士、福地曠昭氏)
「朝鮮人慰安婦の足跡たどる」 沖縄タイムス(90/9/19)
1990年
5月22日
韓国盧 泰愚(ノ・テウ)大統領来日を前にアリランのうた製作委員 会、「創る会」代表・橘田浜子らは、社会党の清水澄子参議院議員を窓口に外務省へ「従軍慰安婦」の実態調査を要請。
6月
韓国クランクイン「慰安婦」「学徒兵」「被爆者」強制連行被害者らの証言をたどる。
6月6日
参議院予算委員会 社会党の本岡昭次議員が慰安婦の実態について 質問。政府は「慰安婦は民間の業者が軍とともに連れ 歩いた、調査はできない」と答弁。
8月
上記政府答弁に対する抗議行動と世論の喚起を目指して「慰安婦」 の沖縄合同慰霊祭を企画。
9月
慰霊祭実行委員会を代表して朴壽南が訪韓。「韓国教会女性連合会」尹貞玉氏らへ政府答弁に対する抗議行動を呼びかける。「従軍慰安婦」問題議員懇談会への参加を招請。
10月
「韓国教会女性連合会」代表など慰霊団を招き、 沖縄・渡嘉敷村で初めて「朝鮮人慰安婦・軍夫」の合同慰霊祭。
慰霊祭のもうひとつの目的である戦後補償問題提起のため、アリランのうた製作委員会と「創る会」は、「従軍慰安婦議員懇談会」を主催。「韓国教会女性連合会」代表を東京に招請、在日朝鮮人女性(申英愛氏ら)と婦人矯風会とともに対政府要請行動を展開。戦後補償運動の起点となる。
11月 「韓国教会女性連合会」慰霊団は一連の報告会を開催し、「韓国挺身隊対策問題協議会」を結成する。
1991年
3月
7月
映画完成。全国上映はじまる。
9月5日
ペ・ポンギさんが、国家補償提訴を決意、代理人として真境名光弁護士に委任。
10月18日
ペ・ポンギさんの遺体が那覇市職員に発見される。死後5日がたっていた。
11月7日
渡嘉敷村主催「「アリランのうた」上映会はペ・ポンギさん追悼上映会となる。
「眠る場所がなければ墓地の一部を提供したい」とある村民から申し出がありモニュメント建立へ動き始める。
12月4日
ペ・ポンギさん追悼の集い
主催:沖縄上映委員会
モニュメント建立が提起される。
12月6日
韓国の元「慰安婦」金学順さんが尊厳の回復と国家補償を求めて日本政府を提訴。
1992年6月18日~
韓国から元「軍夫」(映画「アリランのうた」「ぬちがふぅ」に登場する証言者ら)6人と遺族らを沖縄に招請。橘田浜子ら「創る会」とともに現場検証と慰霊の旅を挙行。
8月
山梨・つくば・湘南・渡嘉敷で募金など活動はじまる。
1993年
デザイン・制作
陶芸家・伊集院真理子氏に決定
12月4日
ペ・ポンギさん3回忌追悼の集い(東京プレスセンター)
緊急アピール
【ペ・ポンギさんの遺骨の原状回復を訴えます】
1995年5月7日~96年4月
渡嘉敷村にて第一期工事 築窯・陶ピース製作
97年7月~10月
第二期工事に全国からさまざまな製作支援、150余名のボランティアが製作作業に参加。モニュメント完成。
韓国からペ・ポンギさん遺族と戦争被害者を招いて竣工式・慰霊祭