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原点

 

父から教えられた信念。それは「人を信頼すること」「人から信頼されること」。

この信頼によって命と愛が生み出されるのだということー。

1935年三重県で生まれた在日朝鮮人の朴壽南監督。1923年に起きた関東大震災で父親は朝鮮人虐殺の襲撃を体験した。命を仲間に救われた父の告白はその後の活動の原点にー。朝鮮人民族差別問題、植民地と戦争の被害者の声を聞き記録する活動に向かう「私の旅」の序章。

1952年10月23日 東京朝鮮中高等学校運動会
(神宮競技場・朴壽南17歳)

滋賀県大津市立膳所小学校「民族学級」

58年7月 八日市小学校・民族学級の授業風景

1949年 東京朝鮮中等学校入学 

※【 】の文:朴壽南

 

【12歳の春。ある日父は改まって一つの物語を語り始めた。

若い日、父は千葉県のたまり工場に住み込みで働いていた頃、関東大震災が起きた。その地方にまで「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」「婦女子に暴行を働いている」など流言飛語が飛び交う混乱の中で「朝鮮人狩り」が始まった。虐殺の嵐が吹き荒れる真っ只中、工場主の夫婦と一緒に寝起きをし働いてきた仲間たちが命がけで父をかくまい、父の命を救ってくれたという。この世にも恐ろしい物語に圧倒されていた私に父は静かに私を諭した。

「命を救ってくれた日本人に大恩がある。お父さんを信じてくれた日本人のおかげでお前が生まれた。お前の弟と妹3人が生まれたのだよ。お前はお前たちの命までこの世に送り出してくれたその日本人たちの恩を忘れてはならない。お前はその大恩に報いるためにも、立派な朝鮮人のオモニにならなければならない。そしてたくさんの子どもを生むのだ」と。父は当時一校しかなかった朝鮮人中学校へ私を入学させようとこの物語を語ったのだ。祖国朝鮮が日本の敗戦によってその植民地支配から解放された2年後の春であった。解放直後、父はお寺の一室で地域の子どもたちを集めて、奪われていた母国語を取り戻す教室をひらいた。父は皇国少年・少女になりかかっていたわが子を取り戻す、いわば民族復権のルネッサンスに立上がった一世の一人であった。しかし皇国少女の一人だった私は、人間以下の奴隷扱いを受け、石を投げられた朝鮮人にはなりたくなかったのである。私は名門のフェリスに憧れ進学を夢見ていたのであった。しかし結局私はこうして東京朝鮮中学校へ入学した。この父の原体験はその後の私の生き方の原点にどっかりと根を張ったように思われる

​参照 エッセイ 小松川事件と関東大震災 1990年10月​

掲載誌 高校のひろば / 日高教・高校教育研究委員会 編 42 2001 p.72~74

民族教育の弾圧

 

 【朝鮮人学校閉鎖命令を執行するために戦後はじめて武装した日本の警官が数百人、私たちの学校を襲撃してくる。「突撃!!」の大歓声をあげて、教室から私たちを追い出す。逃げ場がなく、1年生の400名は狭い運動場へ逃れた。袋のネズミのように逃げ惑う私たちの背に、警官たちは樫の警棒を振り上げた。頭が割られ、校庭は血の海になった。折り重なった背を踏みつけて、さらに警官は踏みつけ、樫の棒を振りおろす。その時突然私の中で声がでた。「逃げるな。背中を見せたら殺される。真正面から向き合うんだ」。私たちはスクラムをくんで、棍棒を振り上げる警官と向き合った。「ここはウリハッキョ(私たちの学校)です。父や母がナケナシの廃墟からつくったのが、この学校です。独立した民族として私たちは自分の言葉を学んでいるのです。なぜ追い出すのですか。ここはウリハッキョです」と、必死に泣きながら訴えた。棍棒を振り上げていた警官たちは、棍棒をおろした。全国500数校の生徒父兄たちは、ウリハッキョを守るために立ち上がった。大阪ではキム・テイルが警官に射殺された。神戸では戒厳令が敷かれた。民主主義日本が真っ先に暴力をふるったのは、私たちの学校を奪い取るための弾圧だったのである。日本の大学や教員たちに「この民族教育の弾圧は、日本人のあなた方の民主主義教育の弾圧の前触れです」と闘いの支援を訴えでた。】

 

 

1950年 朝鮮戦争勃発

 

【米ソの代理戦争と言われた朝鮮戦争。相食む戦争で―同胞相食む。トルーマン大統領が特別声明―あらゆる型の原子兵器の製造を続けるよう原子委員会に指令する―を発表。これに対して、原爆開発に寄与した12人の米国物理学者がこの声明に対して、あらゆる核の製造と実験を禁止する、アピールを発表。これを受けて国際社会は、反戦反核の平和運動を展開した。

私たち中学生は、祖国に原爆に落とすな。アジアに平和を、との願いを抱いて、アピールの署名運動に参加。東京朝鮮人中高等学校平和擁護委員会を結成。委員長としてこの運動に参加し、主導した】

 

「朝鮮学童だけで200万票以上の署名を獲得し、とくに東京都立小中高生4000名は60万票(東京人口の10%)を集めた」(1953年ウィーン・第3回世界教員会議への提出レポートより)。

※詳しくは、『もうひとつのヒロシマ』p.384-391参照

 

1953年 民族学級講師へ

世界平和協議会(ストックホルム)より高い評価を得る。日本平和委員会大山郁夫氏、続いて中国赤十字会より表彰状が送られる。

【表彰式後、数日して共産党の幹部が私を訪ね、日本共産党への入党を勧告してきた。それを拒否する。「私は朝鮮人である。なぜ日本共産党に入党するのか?」と問うと、その幹部は「日本の革命の前衛は、最も勇敢なあなたたち朝鮮人が前線となって担うのです」と答える。平和委員会の役員の全員は、私を除いて全員が入党していた。結局、私はこの平和委員会から委員長の座を追われることになっていく。「反党反革命分子・トロツキスト・プチブル」との誹謗中傷を浴び、一時は自殺まで考える。「ここで負けたら私の死だ。高校を卒業したら学校を追われた子供たちのために、教室をつくろう」と決意】

 

 

1955年〜 滋賀県大津市立膳所小学校「民族学級」の講師となる。

 

 滋賀県の貧しい山村の醒ヶ井小学校へ志願。

【一つの事件が起きた。「泥棒のミョンヨニ」とあだ名で呼ばれていた小学校3年生の少年が、担任のカバンから8千円を盗み出して家出。10日以上も帰らなかった。村中騒然となった大事件である。しかし少年は民族学級の生徒ではなかった。ミョンヨニの家を訪ねると、馬小屋が住まいだった。ミョンヨニの母親に、「このお金で担任に弁償してください。お母さんからのお金だといって、警察には申告しないでください」と伝える。校長と担任は、「事情を察してこれは朴先生にお返しして、申告しないから安心してくれ」と伝えられる。その夜、村中の同胞の父母たちが集まるオモニ学校にミョンヨニの母が訪ねてきて、お金を返しにきた。

数日後、滋賀県下の民族学級の教師たちの総会が開催された。私はこの総会で、訴えた。教室に掲げてある金日成の肖像を取り下げましょう。そしてミョンヨニたちのように、南の父兄たちも、北の子供たちもいっしょに勉強できる教育を始めよう、と。この提案は、中傷と非難の怒号でかき消された。私は孤独だった。私はミョンヨニたち、村たちの父母たちを置き去りにして、東京へ逃げ帰ってきた。これが私の原罪だ。翌年、小松川事件が発生】

 

1958年小松川事件と私へ

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