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広島へ
1965年 広島へ

 

 

1965年

【コリアン被爆の実態調査に取り組む。「コリアン被爆実態調査票」(500枚、タイプ印刷)を作成。渡日年月日・その理由・本籍・家族・被爆時の職業・被爆地・被爆による被害・原爆手帳の有無・健康状態・現在の職業・生活扶助の有無・被爆死した身うち・知人の数・指名・住所等の質問事項からなる調査票を抱えて一軒一軒、個別訪問を開始する。

※参照資料

『太陽』<日本の中の60万人>

藤川清写真/平凡社/1965年12月号
 

雑誌『展望』第103号に掲載

「(報告)在日朝鮮人のこころ―半日本人の現実から」

 1969年7月号

 

聞き取り内容の一部を収録:長崎県崎戸島·1965年12月/大阪市生野区の公立中学校·1966年1月/福岡県山田市の廃坑村·1965年/大阪朝鮮高級学校·1966年2月

備考:

「以上の報告は、わたしが、自分の内なる旅とよんでいる取材旅行の記録から切り取った録音テープの一部である。わたしがこの旅へ出発したのは、1964年の夏であった。」(170頁)

アンチヒューマンードキュメント日本人』 第8

朴壽南/ 学芸書林 /1969

 

著書『もうひとつのヒロシマ-朝鮮人韓国人被爆者の証言』

1985年

 

筑豊、福岡県山田市、豊州炭鉱の廃墟を訪ねる。

山口宇部炭鉱、下関大坪部落の同胞探訪。個人史、体験を記録。

1967年 コリアン原爆被爆者38度線を越える証言の会結成 

朴壽南

【日韓協定をめぐって、広島はとりわけ南北の対立が深く、この只中へ被爆した同胞を訪ねて歩く旅は、軋轢がたえなかった。「お前は北の者か、南の者か」私はそのどちらでもない。あえて言えば「私は南と北の者だ」と。しかし私の答えは、南北の同胞からひんしゅくを買った。驚いたことに、自らが被爆したことを名乗り出る同胞は一人もいなかった。この広島で・・・。原爆症に病んでいたハラカラたちには、一切の政府からの援助はなく、貧窮の底で被爆体験の生き地獄の記憶に心身病みつかれていた。その体力で唯一の救済は、一日250円の賃金で広島市が失業対策の事業として行っているその失業対策(失対)の日当でしかなかった。行き場もない貧しい同胞たちが、広島の復興から取り残され太田川の土手から川べりまで密集した原爆スラムと呼ばれている共同体に住んでいた。私は地下足袋を穿き、市内8か所の失対の現場とこのスラムで掘り起こした被爆同胞と寝食を共にした。ある日、朝鮮総連の若者たち十数人がこのスラムに寄宿している李さんの家に押しかけてきた。なぜこのチョンパ分子を世話しているんだ。この女は、反逆者だ。総連の破壊分子だ。そして私の胸ぐらをつかんで、外へ押し出そうとした。目の前には太田川の川が流れている。ここへ放り込まれたらおしまいだ。その時、寝付いていた李さんが静かに起き上がり、その若者たちを諌めた。「何年も東京から自分の金で被爆した同胞たちの実態を記録しているんだよ。この仕事は本来は個人ではなく、総連なり民団がすべきなんだ。そう思わないか?この人は私たちにはありがたい人なんだよ。手を離せ。」私と一緒に失業対策の現場に通っていたオモニも大声で抗議した。たびたびそういうことがあった。南の同胞たちは、私をペルゲンイ(赤)を言い立て、塩をまいて追い返したりした。北の同胞は、私を情報部の工作員だと水をかけたりもした。身をもって私は南北の分断のはざまで引き裂かれ、血と涙を流したのである。私はこの南北のハラカラたちに、「ピカ(原子爆弾)に38度線はない。あの時私たちは一つの民族だったんだ。この事実をきちっと歴史に記録して、日本政府に責任と賠償を要求しないとならないと思っていた。賠償のための記録を私はつくる作業をしていたのである。「ピカ(原子爆弾)に38度線はない」を合言葉に南北の被爆者に呼びかけて、互いの「証言をきく会」を組織して、広島市内の平和運動団体や市民に呼びかけ、この「聞く会」への出席を求めた。この会の白晶基(ペク・チャンギ)さんは妻と5人の子を原爆で殺されている被害者で、朝鮮総連の幹部の一人であった。この白さんに対して朝鮮総連から「この会に参加するな、解散しろ」との妨害を受け、悩んでいた。私は思い余って、総連中央へ抗議に出向いた。「今この証言を聞く会は、広島市内外の日本人にこの事実を知らせる大きな活動をしている。そして南北の被ばく同胞はこの体験を共有する中で、親しくなっている。いわばこの会は、南北統一の広場である。マダン(韓国語:人々が集まる‘広場’)である。協力してくれとは頼みませんが、妨害だけはしないでください」。その幹部の一人は、「あなたの活動については、総連の内部で賛否がわかれている。この問題は、中央の常任委員会にはかって、あなたに通告するからそれまで待て」と言われた。73年に通達がくる。「一切の広島の活動から手を引き、広島からでていけ」と。これが総連中央から私への通告であった。】

 

1986年12月 
『もうひとつのヒロシマ−アリランのうた』完成・上映運動が開始される。
 
1987年8月 
原水爆禁止世界大会にて「もうひとつのヒロシマ」が上映される。議長団から7か国代表が居並ぶなか、ひな壇に迎えられる。
 
1987年8月9日 
長崎にて被爆42周年原水爆禁止世界大会<大会宣言全文・アピール文>
【私は、これまで国の代表者以外の発言を認めてこなかった国際会議で初めて、発言権を得ることができた。私はこの時、コリアン原爆被害に対する決議を要求した。これに対して、清水ハルコ議長は外国人原爆被害については解決済みだと発言したが、その発言に対する外国代表団―特にインドや香港、などの植民地を経験した国々―から非難が相次ぎ、コリアン被害への補償を決議するに至った。(宣言文参照)
​一、私たちは、とくに日本の植民地支配下で被爆させられ、差別されてきた朝鮮人・韓国人被爆者など、外国人被爆者に対し、日本政府が正当な補償措置を講ずるよう要求する
 
1987年9月
大会採択後、韓国を訪問し、<原爆被爆者協議会>に報告。
「日本政府に国家補償を要求するよう」に提起。
協議会(辛溶洙・シン・ヨンス会長)は、11月、日本政府に23億ドルの補償を求める記者会見。要請書を発表。
1988年には金貞順さん(映画ラストシーンに登場する)が補償を訴え米国へー。】
 
​朝鮮人「軍属」「慰安婦」の足跡を追って沖縄へ
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