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もうひとつのヒロシマーアリランのうた

◉1986 /58分/16mm/カラー/日本語・韓国語/202年4Kデジタル版DVD化

​2020年 ネガ・フィルムから4Kデジタル化されました。デジタル化映像を8月5日から配信しています。

 Vimeo オンデマンドで視聴する

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監督:朴 壽南
撮影:星野欣一 編集:富塚良一
整音:甲藤 勇 音楽:原 正美
製作:青山企画、アリランのうた製作委員会

 

2018年 朴壽南特集上映 神戸映画資料館 7月21日(土)22日(日)

2005年 山形国際ドキュメンタリー映画祭・在日特集
2013年 被爆者の声をうけつぐ映画祭 正式出品
2016年 釜山平和映画祭 正式出品

 

ー父や母たちは、未曾有の原爆惨禍を証言して、人類の未来を証言する

監督第一作。広島・長崎で十万人ともいわれながら、日本、南北朝鮮の政府からも棄民されてきた朝鮮人の原爆被爆の実態に初めて光をあてた作品。小松川事件(58年)の少年死刑囚・李珍宇との書簡集『罪と死と愛と』(63)の後、朴壽南は奪われた存在を回復する「私の旅」に向かい1965年から広島、長崎、筑豊へ。南北の分断をこえ朝鮮人被爆者の沈黙を掘り起こし、73年に証言集を発表。1985年からペンをカメラに替え、植民地下の強制連行と皇民化教育、差別と原爆障害に苦しむ同胞の声なき声、治療のため来日した在韓被爆者の訴えをすくいとり、日本の反核運動に衝撃を与えた。

1987年原水爆禁止世界大会 で上映された。

 

ノーモア ヒロシマ・ナガサキの原点を問う

ー証言は未来を予言するー

 

制作によせて 朴壽南

 

ひき裂かれた祖国の悲劇を超えて、無音の闇からきこえてくる復権の声……

国を盗まれ、土地を奪われ、あげくいのちまで剥ぎ奪られた地獄……

その地獄を産床にしたおびただしい二世の子どもたちであるわたしたちは、何者なのか。

わたしはどこからきたのか…わたしはどこへいくものであるか…

 

父や母たちは奪われた国を語り、殺されたものたちをかぞえて、

民族の未来を予言する…

 

父や母たちは、未曾有の原爆惨禍を証言して、人類の未来を予言する。

(当時チラシに掲載)

 

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『もうひとつのヒロシマ−アリランのうた』は全国約300ケ所の自主上映会で延4万人を動員しました(1986~1991年)

 

16mmフィルム購入先

・山梨平和を語る会・広島県教職員組合

・横浜市教育文化センター視聴覚センター

​・神奈川県高等学校教育会館県民図書館

・長崎市国際文化会館

​・滋賀県「一万人の見る会」

・東京都立日比谷図書館

・長崎市立図書館

・横浜市立図書館

・藤沢市立図書館

・神奈川県立図書館

・川崎市総合教育センター

・湘南教職員組合

・竹田靖子(千代田区議)

各界から

 

映画技術の枠をこえた迫真のドキュメント

◉松竹映画監督 大嶺俊順

 

この映画の中に登場する韓国・朝鮮人被爆者たちの証言には、今まで語られることのなかった「もうひとつのヒロシマ」の真実がある。

「映画づくりに、ズブの素人が執念をかけて取り組んだ」と朴さんは語るが、没個性化の現代に、強烈な個性ほど説得性をもつものだ。映画作りにプロもアマもない。まさしくこの映像は、映画技術の枠をこえた迫真のドキュメントである。単純な告発ではない。

ここで作家が問い続けているのは、朝鮮の老婆の目に、“けものの目”をした、「人間でないもの」として映ったわれわれ日本人の、いや私のアイデンティティなのであるー。数少ない女性監督の世界に、骨太で大型の新人監督が登場した。

​◉鎌田定夫(長崎総合科学大学)

『もうひとつのヒロシマ−アリランのうた』は在韓・在日被爆者の証言をまとめて、きわめて純度の高い総合芸術にまで高めることによって、観客に鮮烈な感動と衝撃をよよび起こし、「ヒロシマ・ナガサキ」の証言運動に新しい地平を拓いた。

強制連行—そして被爆 

​<制作に寄せて監督朴壽南>

 

私が初めて広島へ被爆した同胞を訪ねたのは1965年の夏である。

 日本の植民地支配からの解放20年目を迎えるこの夏、韓国は騒然としていた。被害の賠償と請求権を主張して14年間、難航していた韓日会談が妥結。  日本は10万人にのぼる朝鮮人被爆、「従軍慰安婦」の存在も隠蔽したまま61年、軍事クーデターにより政権を掌握したパク・チョンヒ暫定政権と「有償2億ドル、無償3億ドル」という代価で政治決着したのである。  韓国各地では、「屈辱外交」「売国協定」の批准に反対する闘いが連日、日本に報道される最中での広島入りだったのである。 しかし、私が出会ったのは誰ひとり被爆したことを名乗り出ない同胞らの深い沈黙と孤独であった。 

 

 韓日国交以来、ますます南北の対立が激化する広島で、私は「ピカ・原爆に38度線はない」と同胞らに呼びかけ、67年には「韓国人・朝鮮人被爆者の声を聞く会」を組織し、証言運動を広島で展開した。 被爆同胞自身による存在の回復の闘いが始まったのである。これに連動、韓国の被爆者が沈黙から立ち上がり「韓国原爆被害者協会」を設立、日本での公表を託して、続々と三菱重工や徴兵によって被爆した被害者の手記が私に送られてくる。 73年、これらの手記などを含めてコリアン被爆者の証言を調査、資料をまとめて『朝鮮・ヒロシマ・半日本人』(三省堂)出版した。朝鮮南北の被爆者の証言運動は、唯一の被爆国、核の被害者としてスタートした日本の反核運動に対し大きな衝撃を生んだ。

 この一本の映画は、1987年8月、広島、長崎の原水禁世界大会で上映され、「日本の植民地支配によって被爆を余儀なくされたコリアン被爆者に日本は国家補償をせよ」とする大会採択を獲得する多大な影響を与えた。被爆から42年、あまりにも遅すぎる採択であった。私のこの報告を受けて、韓国原爆被害者協会が当年12月6日、日本政府に26億ドルの賠償請求をしている。                          

リアン被爆者は今もー

市場淳子(韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長)

 

日本の朝鮮植民地支配の結果、広島、長崎で7万もの朝鮮人が原爆被害を受け、生き残った3万人のうち2万3千人が独立を果たした祖国に帰っていった。現在、大韓民国2600余名、朝鮮民主主義人民共和国300余名の被爆者が、各国の被爆者組織に登録されている。日本政府にはこれらの被爆者に対する補償責任があるが、未だに補償していない。在韓被爆者は1965年に日本との国交が回復するや否や、対日補償請求の声を上げた。しかし、日本政府は、補償はおろか、被爆者援護のための法律(現行法は「被爆者援護法」)を適用することさえも拒否した。そのため、在韓被爆者は1972年以降、日本政府を相手に、被爆者法の適用を求める裁判を10数件も提訴し、そのすべてに勝訴してきた。その結果、今日では在韓被爆者も韓国で各種手当を受け取ることができるようになったが、その後も日本政府は韓国での医療費に援護法を適用することを拒み続け、在韓被爆者は今も医療費支給を求める裁判を闘っている。いっぽう、在朝被爆者は日本政府から完全に放置されたままである。「戦争加害国」日本はアメリカの原爆投下で「戦争被害国」になりすました。日本政府が在韓・在朝被爆者への補償を行わず、裁判で何度負けようとも援護法の適用を拒み続けるのは、「戦争加害者」である自分の本当の姿を直視したくないからであろう

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