1990年代「慰安婦」の尊厳を回復するために
1994年 韓国「従軍慰安婦」被害者の会 を支援する
「ハルモニたちを支える会」を結成
「従軍慰安婦」ー。私たちは一方的に名付けられ無垢な初夜を皇軍の将兵らに強姦されほしいままに陵辱されました。私たちは数年にわたり皇軍将兵らの恐るべき性暴力に蹂躙された被害者たちです。私たち自信が日本の侵略戦争を身を以て体験させられた生き証人です。永野法相(当時)は私たちを「公娼」だと発言し免罪を企図しました。私たちはこのまま「娼婦」の汚辱をを負わされて死ぬわけには生きません。私たちは日本政府に対し改めてこの犯罪の被害に対する謝罪と補償を正式に請求します」
1994年5月 <現生存強制軍隊慰安婦被害者対策協議会>
「生きてたたかう」宣言
5月、永野法務大臣(当時)は「慰安婦は公娼だった」と発言し、怒りを爆発させた 被害者 15 名が「天皇に謝罪をさせ、日本政府の公式の謝罪と国家賠償を羽田首相に直訴しよう」と来日し「交渉に応じない限り生きては帰らない」と全員が短刀を胸に忍ばせ 11 日間にわたり要請行動を展開した。
交渉は官憲の暴力と威嚇にあい門前払いとされたが、 李玉先さんら被害者は「生きてたたかう」と決意を新たにして帰国。
「ハルモニたちを支える会」結成
被害者たち一行を受け入れて教会を宿所として提供したフランス人神父エドワード・ブジョストフスキー氏をはじめ、11日間の闘いを共にした監督朴壽南らは、1994年10月、「ハルモニたちを支える会」を発足させた。ハルモニたちは2年間で8回にわたって来日し、日本政府に対し謝罪と賠償を要求した。
同時に首都圏各地の集会や高校に招かれて「慰安婦」の真実を証言し、草の根の運動を繰り広げた。
1995年には<女性のためのアジア平和国民基金>へ抗議・申し入れし、日本政府の謝罪と賠償を要求した。
1998 年には「女性のためのアジア平和国民基金」の受け取りを巡り、韓国政府の新政策や 韓国内の支援団体による軋轢により「被害者の会」は解散を余儀なくされた。
被害者の大半がこの世を旅立った。しかしハルモニたちの肉声と姿は映画『沈黙−立ち上がる慰安婦』の中でだけではなく、多くの証言や行動記録を残してくれている。
【寄稿】
不条理を超えてー 朴 壽南
去る6月3日、11日間の日本滞在を終えて帰るハルモニたち、韓国の「現生存者強制軍隊慰安婦被害者協議会」(後日「韓国従軍慰安婦被害者の会」と改称)一行は晴れ晴れとした笑顔で、この間寝食をともにしてきた私たちとの別れを惜しんだ。ハルモニたちは来日当初、「謝罪と正当な補償を要求する直接交渉に日本政府が応じない限り生きては帰らない」覚悟で、自決用の懐刀をしのばせていた。空港に出迎えに出た私たちに衝撃を与えた、あの恨<ハン>で凍りついた能面のようだった表情が生き生きと輝いている。
戦後半世紀「従軍慰安婦」は「戦場の売春婦」にデッチ上げられてきた。「汚れた恥ずべき者たち」として沈黙を強いてきたのは「一億総懺悔」ならぬ「一億戦場の売春婦幻想」てある。国家による性犯罪を免罪させてきたこの共同幻想を根底から打ち破ることなしに元「従軍慰安婦」への謝罪と国家補償を要求する論理は生まれてこなかったのである。
この度来日したハルモニたちはこの数年、ようやく沈黙を破って謝罪と補償を要求する運動の先頭に立って活躍してきた。彼女たちは昨年11月、これまで「依存してきた」運動体から自立、自らが主体となるべく被害者自身の組織を結成した。突然の来日のきっかけとなったのか一連の永野法相(当時)発言であった。法相の罷免でカタがつく問題ではないこと、さらにはこの間、謝罪を繰り返すばかりの日本政府への不信が爆発したのである。
この間政府交渉や街頭アピール活動などを展開したが、ハルモニたちは行く先々で官憲による威嚇と暴力にさらされてゆく。ひとりは1カ月の重傷を負わされた。これらの経験を通してハルモニたちは日本政府の正体を見破っていく。その一方で、闘いへの支援が広がり、さまざまな市民との出会いの中でハルモニたちは生きて闘う希望を見出していく。
ついにハルモニたちは自決用の懐刀を投げ捨て、生きて闘い続けることを宣言。特に圧巻であったのは、チャングやケェンガリを打ち鳴らしながら銀座から日比谷までの示威行進を歩き通し、「私たちは勝った。万歳!」と輪になって踊りたした光景である。四面楚歌のハルモニたちの「独立運動」は日本国家の不条理を撃つ闘いである一方、ハルモニたちの「独立」を否認して「連帯」を拒否した韓国と日本の戦後補償の運動の質を問う闘いでもあった。
「アリランのうたNEWS 15号」 1994年8月1日発行より